森田立城さん:O.D.S.長崎屋代表「昨夜も零時過ぎに帰宅しました」月曜朝、セントーサ島ケーブルカー乗り場のオフイス。新型肺炎SARSに泣くレストラン業界の中にあって土日も店に立つ。難局を乗り切り店舗拡大にかける。人生の仕上げでもある3度目のシンガポールに夢を託す。 転勤15回、出向・売却のレストラン人生2003/6/3 ![]() 「24期ぶりの赤字転落は必至で、まだ決算書は新オーナーに提出しないで机の上に置いたままです」 SARSはここも直撃している。3店で1日1,000人の客はあるが、日本人客は前年同月比で5月は10%程度。1日ゼロか数人の日も。 自ら店に立ち、1979年4月、チャンギの前の空港に降り立ち、ドアの閉まらないタクシー、エアコン普及以前のシンガポールに着任した当時の士気を奮い立たせる。 転勤15回、出向、移籍でたどり着いたというより、「吸い寄せられるように」来たのが古巣だった。サラリーマンでも稀有な経歴。机上の履歴書を見ながらでないと説明できないほどの転勤、転勤また転勤――。 自宅から通える衣料中心の長崎屋に入社したのが67年。京都三条店で見習い5カ月、関西で2店舗目として開店した大阪千林店、尼崎店、京都四条店と続く。破竹の拡大店舗に、社長は「他社の3割増しの給与を出す」と言うほどだった。 70 年5月、プロペラ機で北海道・旭川へ転勤。「3年がんばるつもりが1年で東京へ」。中野・野方店長に。1年後に苦戦の東大阪・布施店へ。立て直して2年半後に今度は九州・大分。量販店が束になってもかなわないといわれた地元デパート、西友(パルコ)、ダイエー、ジャスコ、ニチイがひしめく大激戦区だった。 「屋上から9番アイアンでどの店にもボールが届くほど密集していましたからね。必死でしたよ」善戦の2年半。次は生駒山の裾野にある瓢箪山店。 79年4月、「行ってこい」と言われた先が、シンガポールだった。海外レストランとして出来て3年目、経営は「真っ赤」。「赴任までの6カ月、大阪の中華料理店で見習い。ホール、キッチンの下働きやメニューの勉強をしました」 タイガーバウムガーデンの前にあった。ビルは東京リースの現地法人ODSが建て、1階に長崎屋、2階が兼松のボーリング場だった。衣料店を予定していたが、狭いためレストランにしたという。海に面し海水を汲み上げ、魚を飼っており、日本人観光客を引き付けた。ODS、兼松が撤退して後を引き継いだ。 83年に再び瓢箪山に戻り、外食事業部責任者に。この間、シンガポールではリース契約の更新ならず。「リース料10年分を前払い」の壁で引越し。ケーブルカータワー13階が主戦場となる。 93年2月、再度シンガポールの土を踏む。同一ポストとしては最長の7年半担当してきた長崎屋外食事業部の一事業所、ODS―Nagasakiyaへ10年ぶりに戻った。 「幸い3店中2店は順調すぎるくらいで、半年後には帰国できる態勢が取れました。だが、1年経っても2年過ぎても帰国の辞令が来ません。この“待ち”の2年間が公私とも充実した期間となりました」 95年11月、長崎屋から子会社を買収した貿易会社の事業部責任者として出向する。 3度目が99年4月。出向先の貿易会社から望んでシンガポールに戻った。だが、本社は次第に経営が悪化していった。長崎屋は会社更生法の適用を受け、昨年2月、シンガポールも姫路の企業に売却した。現地のトップとして残る。 「この8月にケーブルカータワー1階にオープンします。これで4店舗になりますが、9店、10店と増やして行きたい」「主力の結婚披露宴を多彩にしたいですね。ケーキカット、ライティングシステム、20連のハート型キャンドルサービスなど趣向を凝らしています。もっと演出をしてみたい」 11月に還暦を迎えるとは思えない、若々しさと熱気がほとばしる。 ハンディー22のゴルフも遠ざかっている。書換料14万Sドルが高すぎ、24万Sドルで売却したセントーサCCの会員権を懐かしむ。 千葉市の自宅には夫人と2人のお嬢さん。(インタビュー・小森孝光) >>この目次トップへ[P R] [P R] [P R] |