小林啓晃さん:豪州新日鉄社長1955年大分県大分市生まれ。東京大学法学部卒。2005年7月から現職。2人の息子さんが習っていた関係で30歳から始めたピアノとバイオリンを「50歳を機にまたやってみようと思います」。夫人と2人暮らし。 「仕事だから会う、ではなく、まず会うことから」2005/12/13 ![]() 大学時代は伝統のボート部に所属。年間300日は合宿し、練習に明け暮れる毎日だった。 「女房は信じないんですが、通算で20分間しか若い女性と話したことがない年もありました」 ボート選手としては小柄な小林さんは、漕手の平均体重70キロ以下、個人の体重72.5キロ以下の軽量級競技で活躍。4年生の春まで学業そっちのけでオールを漕いだ。 入学当初は弁護士を目指していたが、法律の世界があまりにも世俗的で「学問をしているという喜びが見いだせなかった」ため、半ば失望。4年間のボート生活の後、2年間司法試験の勉強をして駄目だったら就職しようと考えたが、「予定通り駄目で(笑)、新日鉄に入社しました」。 新日鉄を志望したのは、貿易立国日本の根幹たる製造業の代表的な会社で働きたいという「青年らしい思い」からだった。 入社後約25年間は、ほぼ一貫して原料担当。原料の仕事はとにかく仕掛けが大きい。鉱山の広大さ、契約の長さ、量の多さにダイナミズムを感じた。製鉄所にいたころ、落ち込んだ時は巨大な原料船が港に入ってくる様子を眺めて気を晴らした。 ■言葉を超えた交流 1986年から2年間、社命で米シアトルのワシントン大ロースクールに留学した。 初の海外生活の彩りとなったのは、ボートだった。大学の同好会に所属し、言葉を超えた生の交流ができたのが何よりの思い出となっている。 94年から96年まで、独デュッセルドルフの欧州統括事務所に駐在。今回が2回目の海外赴任だ。赴任に際し、「1人でも多くの人間に接し、新日鉄、ひいては日本のファンをつくりたい」と言って日本を出てきた。有言実行。着任以来、ほぼ半分は出張し、人に会っている。 私生活でもドイツに続き、シドニーでボートクラブに所属。今も草の根の交流を実践している。 二十数年前に原料の担当者だった時、豪州といえばストライキの多さで有名だったが、最近ではほとんど聞かなくなった。 一方で、アメリカナイズされた利益追求の波がこの国にも押し寄せてきており、原料の値段が前年度の約2倍に跳ね上がるという、かつては考えられなかったことも起きるようになったという。 豪州新日鉄は、鉄鉱石、石炭のジョイントベンチャーの経営・管理と、自動車用鋼板などの製品販売が業務の中心だ。76年度設立で、来年は創立30周年を迎える。日豪交流年にも当たることから、仕事の関係者の日本への招待やボート競技を通じた交流など、何か企画したいと案を練っている。 ■百まで現役で 実は、小林さんには定年退職後の目標がある。弁護士になることだ。一時は断念した法曹界だが、実社会に出た後、「当たり前のことですが、世の中は実務でできている」ことが分かった。そこから法律がまた面白くなった。 「60歳か70歳か分かりませんが、弁護士になって、百歳まで現役で働きたいですね」 小林さんの人生は、ボートレースでいえばようやく中間点に達したところのようだ。(豪州編集部・鈴木雅章) >>この目次トップへ[P R] [P R] [P R] |