吉野富士雄さん:ラ・サール大学経営大学院教授大学院教授、アジア開発銀行プロジェクトのコンサルタント、ライター、テレビ・コメンテーターと実にさまざまな顔を持つ吉野富士雄さん。自らを「放浪癖があります」と語るその正体を探るべく過去にさかのぼって話を伺っていくと、ルーツは横浜で商売を営む実家にあった。 あきんどの血引く“放浪”学者2003/7/8 ![]() テレビ収録前の忙しい時間の合間をぬって取材に応じてくれた吉野さんの名前は、かつての「フィリピン万華鏡」や新連載「選挙前、フィリピンはいま…」の筆者“フレッドF吉野”として、NNA読者にはおなじみかと思う。しかし、その実像を知る人はどれほどいるだろうか。 「生ぐさい現実への抵抗がありました」。吉野さんは子供時代を振り返りこう語る。あまり外には出歩かず、家で文学や史学などの読書にいそしむ少年で、「いわばオタクでした(笑)」。 これには、商人(あきんど)だった父親の存在が影響している。実家が商売を営んでいたため、小さいころから毎日生活のためにあくせく働く父親の姿を目の当たりにするうち、自然と反発する気持ちが生まれ、いつしか現実から距離を置いた文化的なものへと興味が向くようになっていったようだ。 あこがれ、そして現実 そんな吉野少年が「外」へと目を向けるきっかけとなったのは、米軍基地とラジオの英語放送。ほかにも「こざっぱりとしたシャツを着た米国人とテレビドラマに出てくる米国家庭にあこがれた」という。 それが高じて大学在籍中、当時はまだ珍しかった米国留学の機会を勝ち取る。しかし期待に胸膨らませて乗り込んだあこがれの地で目にしたものは、さまざまな問題を抱える米国の現実。折しもベトナム戦争に象徴される混乱の時代だった。こうした経験を踏まえ、「複雑さを知ることで、米国をむしろ等身大の国として見られるようになりました」と吉野さんは言う。 経営者、そして学者 約9年間の滞在を終え、日本に帰国。生活の糧を得るために外資系企業に就職した。その後、自ら留学予備校の経営に乗り出し、「これまでなかったもの」を提供することで成功を収める。経営学の心得はあったとはいえ、実際に会社を動かすのは初めて。勝算はあったのか。吉野さんいわく、後から考えれば経営学の手法に則った部分があったものの、実際のところは、「まったくありませんでした(笑)」。 ただこの時、幼少のころ嫌々ながら店番をしたり父親の働く姿を見ている中で自然と身に付いていたものがあったのではと感じ、自分にとっての父親の存在を再認識したようだ。 その後は、過労で体を壊したこともきっかけとなり、再び学業の道に戻る。休学していた日本の母校に復学し卒業。再び渡米した後、今度は香港に。アジア経済の研究に本格的に取り組み始めたのはこのころだ。香港市大学の講師を務める傍らアジア各地を巡り、経済雑誌への寄稿もスタート。この時の取材対象の中に、今もつきあいのあるラモス元大統領が含まれていた。 比上陸、そしていま 当地に拠点を移すことになったのは、フィリピン国内で開催されたフォーラムで地元通信大手企業を痛烈に批判したのがきっかけとか。「何者だ?」ということからか、現在在籍するラ・サール大学の学長が声を掛けてきたという。その後はまさに「放浪学者」の本領発揮。生来の好奇心が頭をもたげ、「変わるフィリピン」を見届けるべく直ちに乗り込んできた。 それから約6年。図らずも「変わらぬフィリピン」を見続けることになった吉野さんはいま、教育の面からこの国を手助けしたいと話す。別の国に突然移り住む可能性はあるとしながらも、今度は裕福な大学生ではなく、地方部を周り、小学生くらいの児童に道徳教育を施してみたいと語っている。 最後に吉野さんに聞いた。米国留学先のハーバード大学で学んだことは?返ってきた答えは、本を読むより集中して考え自分のものをつくること。「自分で考えないのは他人にも自分にも失礼です」。耳に残る言葉となった。【インタビュー:鹿谷晴生】 >>この目次トップへ[P R] [P R] [P R] |