門田源さん:三井住友ファイナンス・オーストラリア社長

1954年愛媛県新居浜市生まれ。東京大学法学部卒。趣味は中国書道、チェロ。地元大手行も加入する豪金融市場協会(AFMA)や、外銀協会(OBAA)で理事を務める。夫人と娘3人の5人家族。

海外生活20年目の人情派「密に付き合えば皆同じ」

2006/7/18

門田源さん

海外生活は今年で20年目。高校時代に米留学経験があり、三井銀行(当時)に入行後も4年目の1982年から2年間にわたる留学により、米ノースウエスタン大でMBAを取得。こうした経歴から判断すると、クールな人物像を想像するかもしれない。だが実際には相手をリラックスさせる雰囲気を持ち、会話の中に常に笑いを絶やさないタイプだ。

MBAから帰り、希望通りに入った証券部での仕事が面白くなりかけたころ、「3年だけだから」とマニラのアジア開発銀への出向を打診されたのが本格的に海外に出たきっかけ。86年のアキノ政権誕生直後で政情不安から誰も行きたがらなったが、門田さんは快諾し、開発金融を手掛けることになった。最初の担当はインドネシアのパーム油プランテーションで、その後、部門が地域別に改められ、インド・ネパール・スリランカなどを任された。

3年での帰国予定が変更されたのは、89年に天安門事件が発生したため。当時、証券関連の現地法人が香港にしかなく、97年の中国返還を控えて行内では懸念が高まっていた。「シンガポールに新しい現法を作るように言われ、90年に立ち上げたんですが、何とそこに12 年間もいました」

シンガポール時代を濃密な時期だったと振り返る。「『ミラクルアジア』と呼ばれるちょっと前に赴任して、急成長の時代に入り、96、97年ごろにはバーツ危機以降広がったアジア通貨危機がありました」とジェットコースターのような経済の上下動を体験。最後の3年間はインドネシアの債務者に対するアドバイザリー業務が主な仕事だったという。「何もしていないのに、自国通貨建てにすると彼らの債務が何十倍にも増えてしまって。(債権者と)双方が破たんしないように折り合いを付けるのですが、ずっと金貸しの論理でやってきたので、借り手の気持ちに立てたのは貴重な経験でした」。

人口、国土の面から大国と認めるインドネシアには思い入れがある。「好きなんですよ。実におおらかな人たちがいて、日本人が思っている以上に真面目だし」。事業をやる上でのリスクは「肝胆相照らすというか、個人的に親しくなれば安全だと思います。銀行で審査をやっている人はうんと言わないだろうけど(笑)」。ただし、こうした考えを基に担当した案件は「それほど焦げ付いてないんですよ」

■アジアに近い感覚

01年からのロンドン勤務を経て、03年より現職。豪州ではロイヤン発電所などインフラ関連のプロジェクトファイナンスを扱うことが多い。「リスクが少ない割にリターンがいい」と金融業界の環境を分析。しかも、「ようやく(公共事業に民間資金を取り入れる)PFIが話題になっている状態だから、発展の余地は残っています」。

豪州人のメンタリティーについては「アジア人に近い」と見ている。「友だちになると、いろんな扉が開く。英米だと『商売は商売』なんだけど、豪州では意外に『まあしゃあないか』と受け入れられる」

「ギリギリまで絞るのと、相手を考慮してある程度で抑えるのと、最終的にどちらが儲かるのか分からないですからね。ギリギリだと、どこかでしっぺ返しを食うかもしれないし」と語る門田さん。まあ痛い目に遭わない人もいるんでしょうけど、と笑って付け加えた。

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