ミゲル・ベルモンテさん:フィリピン・スター社長1963年マニラ首都圏ケソン市生まれ。弁護士をしていたフィリピン人父と、メディア一家で育った中国人母の国際カップルの3男。幼少より家庭内の会話はもっぱら英語で「タガログ語は苦手だった」という。 「得意は人と怒りのコントロール」自然体貫く、40代の大手新聞社トップ2006/9/26 ![]() 「学生のころ勉強が嫌いでした(笑)」 一般紙・タブロイド紙ともに国内最多の発行部数を誇る大手新聞社フィリピン・スターの社長を務めるミゲル・ベルモンテさん。もともとメディア業界への興味はなかったという。 勉強よりもスポーツに明け暮れた「普通の」高校生活を経て、苦手な数学系の科目が少なく女子学生の数が多いという情報をフィリピン大学に通っていた兄から入手し、かくたるビジョンもないまま、ホテル・レストラン管理学を専攻する。入学してみると、なるほど女子学生は期待通りだったものの、数学の方は結局、在学中を通じていたく苦しめられるはめに。 大学生になっても職業に対する意識は希薄だったが、実習としてマンダリン・オリエンタル・マニラで行ったOJTで自らも認識していなかった接客などの才能をプロに見いだされ、仕事のオファーを得てそのまま就職。その後も順調で、先輩を差し置いて推薦されたフロント・オフィス・マネジャーのポストを断り、当時父が社長を務めていたマニラ・ホテルが運営する北京のホテルへの派遣が決まった。 ■母の思いに動く ところがここから事態は動く。マンダリンを辞め中国行きを前にしばしのんびり過ごしていると、フィリピン・スター創業者である母から仕事を手伝ってほしいと声が掛かる。幼少のころより両親を深く尊敬し逆らったことはなく、家業を手伝うつもりで軽い気持ちから申し出を受けた。おのずと働き始めた当初は、出社しても夕方になると早々に帰宅しスポーツなどに興じるやる気のない日々が続いた。しかししばらくすると、これまでホテルの仕事では感じたことのない達成感が得られるようになり、遂には父の了承を得て、北京行きを白紙に戻してしまう。 観光業が活況を呈した1991年、いったんはホテル業界へ戻りたい希望を抱くが、「母の流した涙を見てすっぱり断ち切りました」。実はこの時既に母が病に侵されていたことを後になって知る。 94年、母をがんで亡くすと、母のパートナーで国内有数のジャーナリスト、マキシモ・ソリベン氏の後ろ盾を得て、本格的に会社を率いることになる。根っからの業界人ではないため、分からないことも多かった。それでも発行部数で競合紙を追い抜くなど頭角を現してきたのは、自然体を貫く元来の性格とホテルマン時代に培った「人を管理する力」。加えて、社内外の誰とも接する際に重要な「自らの怒りをコントロールする能力」によると分析する。1,000人から成る従業員に対しては、見せ掛けではない誠実さを示すため、社長室を開放すると同時に福利厚生を充実。おかげで労働組合なしのオープンな職場環境が確立されている。 次に目指すべきステップとして、外から資金を取り入れ、従来の家族事業からより大きなビジネスに転換する可能性を示唆する。ただこれが実現する際に「自分が社長としてかかわっている必要はない」という。また母がそうであったように、事業を子どもに残すかについては、「そうしたい思いはあるが、子どもたち次第」と話す。 厳格な両親に育てられたベルモンテさん、自らの子どもたちへの甘さを自認しつつ「思ったことをはっきり言う妻がバランスをとってくれています(笑)」。気取らない言葉で夫婦円満を表現した。(フィリピン編集部・鹿谷晴生) >>この目次トップへ[P R] [P R] [P R] |