原田昌起さん:ライオン・ネイサン常勤取締役

キリンビールが45%出資する豪市場2位のライオン・ネイサンは、5月に豪州生産の「キリン一番搾り」を発売したばかり。「私の顔なんかよりも一番搾りの写真を載せて下さい」という同社取締役の原田氏に登場願った。

オージーに“ICHIBAN”売り込む

2003/7/29

原田 昌起さん

パブのカウンターで偶然隣り合わせになった豪州人との会話の中で、「ライオン・ネイサンに勤めている」と言っても分かってくれる人は少ない。だが、「このビールを作ってるんだよ」と持っているグラスを指さすと、途端に相手の目が輝く。ただしその後、「何で日本人がオーストラリアのビール会社で働いているんだ」といぶかしがられることになるという。

神戸市生まれの42歳。父君が転勤族だったため、千葉、名古屋と移り住み、小学2年からは神奈川県に暮らした。

中学、高校、大学、社会人とバスケットボールを続けたが、意外にも「運動は決して得意ではない」という。「1つのことを始めたら、容易には変えないタイプ」だそうだ。

大学では社会心理学を専攻。「人間の集団活動に興味があった」というのが理由だ。研究分野の1つである「うわさ、流行」は、消費動向と密接なかかわりがある。それもあって、就職活動では、最終消費財の自動車、家電、トイレタリー、食品関連の企業を志望した。「消費者としての人間」にかかわる仕事がしたかったというから、一貫している。

中でもキリンビールに決めたのは、「自由な雰囲気が伝わってきたからでしょうか」

入社後は、京都工場労務課に配属。約400人の工員の顔と原田昌起、人となりを覚えるのが最初の仕事だった。「京都は閉鎖的だと聞いていましたが、そんなことはなかったですね」。両親とも関西人のため、京都弁にも戸惑いはなかった。「ただ、話そうとするとジンマシンが出ますけど(笑)」

4年後、東京本社の人事部採用担当になる。バブル全盛で売り手市場だった当時、キリンのことを知らない学生に会社を売り込み、「買ってもらう」のは面白い仕事だったという。

人事畑から離れる意味もあり、31歳の時、夫人と幼い長女を連れ、米ボストンのマサチューセッツ工科大学に留学。MBAコースで2年間、「寝る暇もないほどの宿題」と格闘したが、パブ巡りは欠かさなかった。

帰国後は、国内ビール事業の企画部に。キリンビールは1996年、アサヒ「スーパードライ」の勢いに対抗するため、熱処理ビールの「ラガー」を「生(なま)化」するという方針の大転換を行ったが、結果的には裏目に出た。これについて原田氏は、「多くを語りたくはありませんが、予想以上に昔の方が良かったという人がいたということですね」

その後配属された秘書室では、真鍋会長(当時)に付き、会社経営の一端を垣間見た。原田氏の元会長評は「良い意味で、高いところから物事を見ていましたね」。会長のお供をし、新聞や雑誌でしか目にしたことのない政財界の大物と同じ空気を吸うことができたのも収穫だった。

国際ビールカンパニーに移った後、2001年にライオン・ネイサンのシドニー本社に赴任。現在に至る。

5月発売の「KIRIN ICHIBAN―First Press Beer―」は、日本食レストランよりも、パブなど地元市場をターゲットにしている。

現地校に通う小学2年生の息子さんのからみで、ローカルの親御さんと接する機会も多い。生徒の親が集うバーベキューパーティーには“イチバン”を持参し、草の根PRに努める。豪州人に「一番搾りとは何か」を理解してもらうには時間がかかりそうだが、ひとたび始めたら簡単には後に引かない原田氏のこと、必ずや成し遂げるだろう。(聞き手・鈴木雅章)

>>この目次トップへ

[P  R]

[P  R]

[P  R]

Yahoo!ブックマークに登録Yahoo!ブックマークに登録