フジタ・インドネシア社長・藤田佳久さん

1960年生まれ。静岡県掛川市出身。明治大学工学部卒業後、米国へ留学。ワシントンでは日本大使館で警備の仕事をしながら大学で経営学を学んだ。 88年に父危篤の報を受け急きょ帰国。ヤマハ発動機を経て藤田鐵工所入社。インドネシアへは、妻と中学2年の娘の家族を連れ昨年赴任。娘と一緒に免許を取得したスキューバに行くのが休日の楽しみ。

古里で褒められる社員に・「日本のDNA、モノ作りで人作り」

2007/8/2

フジタ・インドネシア社長・藤田佳久さん

ヤマハ、スズキ、カワサキの現地工場向けに自動二輪車のエンジン基幹部品であるクランクとコンロットを鍛造から一貫生産する。鍛造とは鉄を熱してからたたいて型をつける技術で、研磨した完成品にはミクロン単位の精度が求められる。「手前味噌ですが、難しい技術を要します」と言う。

工場を案内してもらうと、築5年というのにピカピカの床にはちり一つ落ちていない。「良い環境が良いモノをつくる」と断言する。

■兄貴肌

兄貴肌の人と評判である。ここへ来る前には「ヤマハ・ジュニア会」の第10代会長を務めた。ヤマハの外注先企業が、次世代の経営者育成を目的に33年前に設立した会で、会を「卒業」した経営者はインドネシアにも数人いる。

■応援団での経験

祖父が静岡で創立した藤田鐵工所は、父の代で長男が本社を継ぎ、四男である父は系列会社を設立。会社を経営する父の元、幼い頃からなに不自由ない暮らしをしてきた。自分も将来は父の会社を継ぐと決めていたものの「このままでは駄目だ」と思い、厳しい環境を求めて高校時代に応援団に入部。大学でも続けた。厳しい上下関係の中でそれまで受けたこともない体罰を経験したが、不思議と上級生を恨むことはなかった。下級生を思う愛情が拳の中に感じられたからだ。「信頼関係があったので納得できました」と言う。

都市対抗野球に出場する松下電器産業へ応援の指導に行った。自分より年上の社員ばかりで当惑する藤田さんに、会社側は「遠慮なく、びしびしやってください」と要請。「では」と竹刀を使い本格的な指導をした。社員一丸となり試合を応援したが、チームは敗れた。大泣きする社員を見て「会社のためにここまで熱くなれるのか」と感動。松下幸之助が言う「企業は人をつくる」という言葉の意味を知った気がした。

■まず職場環境

「ここに来て丸くなった」と周囲に言われる。前任者からインドネシア人を面前で叱ることはタブーとのアドバイスを受けていたが、それだけが理由ではない。「学生時代は明治の看板を、今は日本人の看板を背負っていますから」と言う。

赴任当初、200人の従業員から日本の技術だけに向けられたものではない「敬意」を感じた。日本の企業には「お客さんと従業員を大切にするDNAがある」とし、そのDNAに従業員は敬意を示しているのではないかと思った。

その期待に応えるためにも「フジタに入って立派になったと古里の人に言われて欲しい」と願い、日々、モノづくりの中で人づくりに励むことになった。職場環境の美化はその基本だ。

藤田さんの目には現在のインドネシアは、高度成長期の日本と重なって映るという。「頑張れば、努力はうそをつかない」のがその根拠だ。だから「仕事が楽しい」と言う。そして「この国のために人をつくる」やりがいを感じることがここに来た何よりの収穫とした。(インドネシア編集部・大谷聡)

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