瓜生勝広さん:PT. Sinar Honda Jaya社長・PT.Honda Lawadinata power Product副社長元ノンプロ野球の父子3人。ホンダ硬式野球部に投手として入る。製作所の現場へ転職。その後、九州で営業。地を這い3年後、東京へ。気が付いたら海外営業。バンコクからジャカルタへ。エンジン、ポンプ、発電機で不動のシェアNo1を保持する。秘訣は何か、その戦略を聞いた。 ノンプロから転進、汎用機器へ豪腕2003/9/2 ![]() 父、勝氏は終戦直後、プロ野球を凌ぐ人気があった社会人野球「別府星野組」で1塁手。“火の玉投手”荒巻淳、西本幸雄らは少年たちの憧れの的だった。1950年、プロ野球が2リーグ制へ。チームは「毎日オリオンズ」(現千葉ロッテマリーンズ)の母体となり、主力選手が移った。父は東映、日ハムのスカウトに転じた。日ハムの大田浩司投手をスカウトして注目された。テレビのドキュメンタリーでも紹介された人だ。 ■父スカウト、兄弟実業団 勝広氏もクラスで5位以内の学業成績を投げ捨て、野球校へ。さらに特待生で中央大入り。東都リーグの野球漬け4年間。1971年、ホンダ硬式野球部へ投手として“入社”。肩を壊し1年半で鈴鹿工場へ転進した。中央大同期の石渡茂は、今も近鉄2軍監督。「私の実弟も明治学院、電電名古屋、NTTドコモで捕手をしました」親子3人がノンプロ人生を送った。 このガッツが面白いように節目ごとに効いてくる。 九州支店で「そろばんと格闘」。その後、1人で鹿児島営業所へ。大隅半島を駆け巡り、代理店を督促し1台売れると顧客の家で酒盛り。内之浦のロケット発射で景気付けながら、オートバイを月間30台売った。九州時代に販売成績1位にもなった。 実績を引っ提げ、東京の2輪営業へ。時は2輪から4輪へ、世に言うHY(ホンダ・ヤマハ)戦争の最中である。その後アジア部へ配属となった。36歳、海外営業のチャンスが巡ってきた。 アジアは将来を有望視された市場だった。「言葉なんか要らない」と上司におだてられ、クアラルンプール、ペナンの2輪販売代理店へ出張した。「会議は何を言っているのか分からなかった。だから夜、食事で酒が入った勢いで、会議の復習をしたところ良く分かりました」 84年春、タイ・バンコク駐在となった。2輪から汎用のエンジン、発電機、ポンプの営業へ。「73県の500代理店全て回りました。貧しい農村地帯イサ−ンでは干害を救うためポンプを売りました。こうして販売網を構築したわけです」 ■オリジナル製品作りたい 96年12月赴任、97年5月、インドネシアでの汎用品の製作会社を立ち上げ、98年春、初代の社長に就任。汎用の製造と販売の責任者を兼務。6割がエンジン、3割がポンプ、残りが発電機。農漁業の一次産業には必需品である。年間10万台のほとんどが国内向けだ。 「島国ですから満遍なく営業をやれません。底辺の人こそ必要ですがお届けできない。だから潅漑用のポンプを安くてよいものを作りたい。ジャワ専用、カリマンタン専用があっていい」 「コメ、砂糖の輸入国であること自体がおかしい」と体質改善を説く。汎用営業の言葉だけではない、「ホンダが社会貢献したい」。 就任直後の98年5月、ジャカルタ暴動を体験した。従業員全員にコメ、油、砂糖、ラーメンを持たせて自宅待機、奥さんを日本へ緊急避難させた。「だから私は戦前、戦中、戦後派です」 「2000年4月、バンコクへ出戻り。昨年10月にまた懐かしいジャカルタへ帰ってきました。これで戦前からつながるわけです」 住友エールにいた奥さんは、英語、タイ語、インドネシア語が堪能。「日頃から影の力を発揮して協力してもらっております」優れた無給秘書をお持ちだ。「インドネシアは隠れ家」と呼び、奥さんと飛び切りうまい食事をするのも趣味のようだ。 「単独で30万台の販売を実現したい」55歳、福岡市出身。(インタビュー・小森孝光) >>この目次トップへ[P R] [P R] [P R] |