UMWトヨタ・モーター・副会長・日比隆さん1952年、岐阜県生まれ。大阪外国語大学でペルシア語を専攻。本社人事課長、インドネシア法人出向、オセアニア中近東営業部部長を経て2007年1月から現職。名古屋の自宅に3人の子供を残し、クアラルンプールでは夫人と2人暮らし。(マレーシア編集部・高野徳博) 「みんなで考え、一気に変える」2007/12/20
■生産から販売まで、現場中心に ペルシャ語を選んだ理由は西洋でも東洋でもない「西域」にあこがれていたから。大学3年の時に1年間休学して中東諸国を歩いた。アルバイトで貯めた1,400米ドルが所持金のすべて。1974年のイランは革命前。急激に進む西洋化に浮かれる人々と戸惑う人々を見た。 トヨタへの就職を決めたのも「中東ビジネスをやらせてくれるから」。イラン・イラク戦争の始まった1980年から1989年にかけてイラン政府向けの販売を担当。出張ベースで通算4年間を中東で過ごした。革命直後のイラン出張便には乗客がたったの5人。脱出便は満席だった。 相手は革命直後の新政権。しかも米国とイラク、旧体制を同時に敵に回していた。彼らとじかに接した日比さんは「指導者はともかく、実務を担っていた官僚は若く、青雲の志に燃えていた。決して狂信的な過激派ではなかった」と語る。 鉄道網の開発が遅れ、国土イコール戦場であった当時は自動車が生命線。同年輩の官僚と真剣勝負が続いた。年間の販売実績は9万8,000台。このうち6,000台が救急車だった。 社内では上司や労働組合からも心配された。「あんな危ない所に何年もいて、日比は大丈夫か。日本に戻してやれ」。ところが当の本人は面白くて仕方がない。変えられてはたまらないと「問題ない」を繰り返した。 そんな日比さんが語る中東ビジネスのコツは「明日の2より、今日の1を取れ」。といっても長期的な信頼関係が不要なわけではない。明日は政治体制すら変わりかねない土地で暮らす遊牧民を相手にするには、「今日の1」を積み上げて信頼を築くしかないのだ。 10年間のセールスマン生活の後に待っていたのは本社の人事課長というポストだった。毎年1月の定期異動に備えて3月から計画を練る。各部門の要望を聞きながら調整を続けた。 99年にはスハルト政権崩壊後のインドネシアへ。いつ会社が潰れてもおかしくない状況に直面した。1日の業務は現金の計算から始まる。取引先もみんなで一緒に生き残ろうと必死だった。そのおかげで、03年の帰任時には、より結束の強いサプライヤーとディーラー網ができ、会社には多くの現預金が残った。 ■絶好のチャンス 帰国後はあこがれだった中東地域担当の部長職に就任。その3年後にマレーシア赴任が決まった。日比さんによるとマレーシアは「バランスのとれた国」。最低限度のルールがしっかりと守られ、教育水準も高い。その一方で若年層が多く、自動車への潜在需要はまだまだ伸びるとみている。 現地法人であるUMWトヨタについては「生産から流通、店頭販売まで行っており、海外では珍しい事業体。この環境で腕をふるえるのは望外の幸せ」と語る。赴任直後から「現場を中心に、みんなでお客様の視点で考え、変えていこう」と言い続けている。 例えば物流。各販売拠点が抱える在庫を中央にまとめて効率化し、最善のメンテナンスを行いながら、納車直前のアクセサリー注文にも応えられる体制を目指す。「生産ラインのメンバーから販売員まで、全社員がトヨタ流の考え方を理解してから、各オペレーションを一気に変えていく」方針だ。「こんなことができるのも、生産、物流、販売の3者がいつも顔を突き合わせて考えられるからこそ」だという。 戦火のイラン、大不況のインドネシアを経てたどり着いたマレーシア。イスラム世界では一方の旗手でもあるこの国で采配を振るうのは絶好のチャンスでもある。穏やかな日比さんの微笑みこそが、その自信のほどを示しているようだ。 >>この目次トップへ[P R] [P R] [P R] |