河谷隆司さん:ダイバーシティ・マネジメント研究所・Diversity Strategies Sdn Bhd代表取締役気配りの日本人が、なぜ海外で受け入れられないのか。時として、思いやりさえもが裏目に出る現状を憂慮する。「どうして出来なかったのか」、理由を問うためのWHYが責め言葉に受け取られてしまい、あつれきを生むケースも。『英語の話せるボスになる』の著者は、「善意で損をするべきではない」と説く。 「日本人論」説く昆虫博士2003/9/16 ![]() ■追いつめられるスタッフ 「日本人のボスから『WHY』と3回繰り返されました。コーナーに追いつめられるような気がして、ついその場しのぎの言い訳をしてしまうのです」。フィリピンで日系企業に勤める現地スタッフを対象に行ったセミナーで、参加者の一人が切々と訴えてきた。 じっくりと耳を傾けた後、「日本の現場なら『WHY』は5回繰り返される」と切り出す。独自の企業文化、ボスの個性、ローカルの側の知識・訓練不足、そして英語の壁。WHYの裏側にある真意を懇々と説明すると、険しかった参加者の表情が次第に和んでくる。 「セミナーではサンドバッグになることが多いんです」 異文化マネジメント・コンサルタントとして、7,000人規模の工場を対象にした研修では、本社から社長はじめ全役員が出席し、ローカルのトップ、従業員らと机を並べて侃々諤々(かんかんがくがく)。「吐き出しの場」で1泊2日、交通整理を行いながら、「ダイバーシティ(多様性)・マネジメント」を実践した。 会社内のダイバーシティ教育は米国生まれの企業戦略と言われる。組織が多民族で構成される米企業では、異文化を理解する姿勢がなければ同僚を受け入れることすら難しい。「寛容の精神で自らの領域を多様化し、相手を尊重する」。この発想こそ「世界に進出する日本企業に不可欠の戦略」と判断した河谷氏は、12年前に活動拠点としてクアラルンプールを選んだ。 ■清水寺からガンダムまで 1957年、佐賀県で河谷蒲鉾(かまぼこ)の創業家に生まれる。父親の仕事の関係で小学校1年生の時に博多に転出、「幼少時代はコミュニケーションをとるのが苦手だった」。関西外語大学に在学中、ブームだった『日本人論』に感化を受け、「いかにして日本を伝えるべきか」を考えるようになった。サークル活動の一環として、清水寺で外国人を相手にボランティアガイドを引き受ける日々、ここで「外向きの九州の血」が開花した。 河谷氏25歳の年、日本にはじめてディベートを持ち込んだ松本道弘氏(現ホノルル大学教授)と出会う。同氏の事務所で教育企画室長を務め、「異文化マネジメント・コンサルタントとしてのプロフェッショナルを学ぶ」。4年後、29歳で独立。各地で公演活動やセミナーを行うかたわら、『機動戦士ガンダム』の放映権を海外に売り込んだ。許諾権交渉を一手に引き受け、ハリウッドや韓国、香港を渡り歩いた。 最近、「日本人の気配りは日本人の中だけで完結しているのではないか」と感じているという。特定の枠組みの中で育まれた受容性は、閉鎖社会を生む温床になることもある。「外国人に対しても、日本人が気配りを発揮できるように様々な障壁を取り除く」。これが、ダイバーシティストラテジーズ社の究極のゴールだ。 身振り手振りを交えて持論を展開する河谷氏には、ネイチャーファームの主催者としてフレイザーヒルで「昆虫教室」を開催する顔もある。70歳になった時の目標は「昆虫採集の達人」。 「その前に日本人にあったダイバーシティを確立したいですね」。(聞き手・石橋正樹) >>この目次トップへ[P R] [P R] [P R] |