伊藤ハムフーズ・オーストラリア輸出マネジャー/村尾俊哉さん(38)

1970年静岡県静岡市生まれ。横浜国立大経営学部卒業。2002年に来豪。夫人と生後10カ月の長女とともにシドニー北部のゴードン在住。週末は3年ほど前に始めたサーフィンをしたり、「3カ月に1回くらい」ゴルフをしている。

ロックデールビーフを各国に輸出「フレキシビリティーを向上させる」

2008/7/31

伊藤ハムフーズ・オーストラリア輸出マネジャー/村尾俊哉さん(38)

大学時代はアメリカン・フットボールに夢中だった。ワイドレシーバーを務め、体育会系の世界にどっぷり浸かっていた。膝のじん帯を切って手術した以外には、特に大きなケガはなかったという。

1994 年4月に伊藤ハムに入社。漠然と「食品がいい」と考えていた程度であまり真剣に就職活動はせず、「2件くらい」食品関係の企業を回った。だが、就職のきっかけとなったのはやはりアメフト。当時会社が保有していたアメフトチームの「伊藤ハム・ハスキーズ」に誘われて練習に参加。これが縁で、面接の機会を与えられたという。

入社後に配属された川崎営業所では、商品管理を担当。主に受発注や冷蔵庫の管理などを行い、小規模の商談も手掛けるようになる。ここに3年間所属し、「違うところで働きたい」と思っていたころ、上司から輸入営業部の空席について知らされる。97年に異動し、牛肉の輸入を担当することに。「今思い返せば、輸入関係に携わりたいというのがあった」

この部署で仕事をしているうちに「どこからどういう形でものを買っているか見えてきた」と村尾さん。当時豪州、ニュージーランド、米国からの輸入を担当し、「川上に行きたい」「外のことが知りたい」と豪州への転勤を希望した。2002年5月に念願かなって来豪を果たす。

■増益方針に転換

今年創立80周年を迎える伊藤ハム。日本へ霜降り肉を提供することを目指して、シドニー支店を設立したのが1985年。肉牛肥育場と食肉処理施設からなるロックデール工場が、シドニーから内陸に600キロのヤンコで稼働をはじめたのが93年だ。今ではここで加工された「ロックデールビーフ」を日本以外の国に販売することが主な仕事だが、来豪当初はここ以外の場所からの商品を買い取り、日本の本社に販売することが中心だった。「当時豪州勤務は人材育成の一環としての意味合いが強く、ここで勉強して帰国することが主な目的だった」からだ。

ところがこの後、本社の指示で利益を上げる経営方針に転換。これまでの業務に加え、ロックデールビーフを豪州国内だけでなく、中国やロシア、北米、東南アジア諸国に販売するようになった。

現在ロックデールからは、肥育日数の大小や蓄種などによって、数種類の牛肉を「フレキシブルに」提供している。牛肉の真空パックを箱詰めにした「ボックスミート」を各国に輸出。これが日本ではビーフジャーキーとして加工・販売されたり、スーパーでスライス、ミンチなどの2次加工を経て、消費者の手元に届く。

日本では和牛を扱っているものの、豪州では今のところ生産していないと話す。ただし、「今後は、日本以外の国に向けた輸出もあり得る」と続けた。

最も苦しかった時期は「今」と回答。「この6年間、年を追うごとにキツくなっている」と話す。穀物の価格高騰や豪ドル高に叩かれる中、「コストの増加は瞬間的に起きる。だが、消費者は財布のひもを締め、お客さんへの価格増は瞬間的に、とはいかない」と状況を説明した。

それでも豪州は「食糧の資源国なので、まちがいなく近い将来日の目を見る」と前向きに話す。今後、ロックデールビーフが提供する商品の「フレキシビリティー」を向上させ、「安全でおいしい商品を提供し続けたい」と抱負を語った。(豪州編集部・眞淵正吾)

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