池田忠雄さん:東洋ガラス機械シンガポール社長代行会社の玄関、応接間にずらり並んだガラス瓶と写真。手作りとしか思えない芸術作品が量産されている。進化した金型。その金型製造工場で唯一の日本人。プラスチック、紙容器の攻勢でガラス瓶市場はどうなるのか、金型の行方を聞いた。 改宗してまで愛した人と金型の芸術2003/10/7 ![]() ガラス瓶の金型工場がなぜ、シンガポールなのか。 「理由は単純です」――関連工場がナイジェリアにあった。そこで使用している金型を東京から送っていた。コストがかかるので東南アジアに進出することを決めた。マレーシアから南下して立地を探ったところ、たまたまシンガポール政府の担当者が日本に留学した人だった。5年間の税優遇があり、当地に決まった。 79年、技術者として立ち上げにやってきた。翌年創業し、2年間の滞在で特殊技術を教え込んだ。ベルギー、台湾の同業社も進出してきた。だが、狭い市場で3社の競合は続かず、2社は相次ぎ撤退した。 当初はナイジェリア向けの金型製造だったが、81年、政変で輸出ができなくなった。市場はインド、マレーシア、タイ、フィリピン、オーストラリア、台湾、日本へと拡大する契機ともなった。 本社は東京。工場は東京と横浜にある。ガラス瓶の金型と周辺機械のメーカーで親会社は東洋ガラス。その東洋ガラスがシンガポール社の親会社という。 98年9月、東京本社生産管理部から再び当地へ。 ペットボトル、紙コップはあっという間に世界の容器市場を席巻した。それでも「東南アジアはガラス瓶が元気です。環境にもいい。リサイクル面から見直され始めています」。 写真のワイングラスが淡いこはく色に輝いている。何千という瓶がひしめく集合写真。「どれも当社の金型で作ったものです。金型は一品一品、特注だからいいのです」 日本の金型業者は、続々と中国へ進出している。「台湾とオーストラリアの業者が天津などへ進出しており、手ごわい競争相手になっています」。すでに中国市場も調査済みのようだ。 夫人が付けたもう一つの池田忠雄 「私にはもうひとつの池田忠雄があります」――SAIFUL BARI。モスレムである。86年に当地で夫人と出会い、一目ぼれ。その文化に引かれ、改宗した。夫人が付けた「大海を切る」という意味のサイフル・バリ。「毎日、弁当を届けてくれる」夫人のすごい思いがこもっている。 89年に結婚して、東京生活10年で覚えた和食、文化をすっかり身につけた夫人は、時々「いつ日本に帰るの」と日本でできた友人との再会を待っている。 謹厳なモスレムの中でさぞ窮屈な生活ではと思うのは異教徒の想像だ。スコア90前後の週末ゴルフのあとの一杯。会社帰りに日本酒恋しさで飛び込む居酒屋。「もちろん家内の前では飲みません。たばこも10年前にやめました。お祈りもします」 ゴルフ場もビンタン、ジョホールを交互に。なぜかといえば「ビンタンばかりだと家内に疑われるから」。李下に冠を正さず。 ゴルフに行かない時は読書という。吉村昭のファンだ。「戦艦武蔵」「遠い幻影」「漂流」「三陸海岸大津波」「歴史の影絵」――歴史小説、フィクションとノンフィクションの狭間の小説が好きという。 思い遥か北の大地 生まれも育ちも北海道・日高三石町。だからなのか北海道の村人がヒグマに襲われ、殺された「熊狩り」の話が心に残る。その故郷はあまりにも遠い。女3人、男8人の11人兄弟の下から2人目。13年前に母親の葬儀で帰ってから北の大地に足を踏み入れていない。 「3年前に姉夫婦がシンガポールへ旅に来て会っています。ゴルフ仲間に同郷がいますが、彼は毎年帰省しています。信じられないやつだと非難されています」 早くして亡くした父親はハタハタなど磯の漁師だったと語る目には、はるかな北国を思う憂いがあった。遠くにありて思う父母の地へ「いずれ帰りたい」とぽつり。 7月に社長代行の辞令を受け、今、必死に財務の勉強も始めた53歳。まだ先が長い。(インタビュー・小森孝光) >>この目次トップへ[P R] [P R] [P R] |