白石康信さん:PT Ryoei Eterna Indonesia 社長・JJC中小企業(SME)連合会長

インドネシアで5つの工場を立ち上げた経歴を持つ白石康信さんは、在イ22年の強者。現在も三菱電機の関連会社リョウエイ・エテルナ・インドネシア社長のほか会員企業310社を数えるジャカルタ・ジャパン・クラブ(JJC)中小企業連合会(SME)の会長を務める。

在イ22年、定年後も残り多様な肩書き

2003/11/18

白石 康信さん

6年前に三菱電機グループを定年退職し、現在も三菱電機の関連会社前川電機、菱栄電機の現地法人を率いている。従業員約100人の同社の中で日本人は一人だけ。

オフィスでのコミュニケーションはこれまで立ち上げたほかの会社と同様に英語を使う。日本人にとっても、インドネシア人にとっても第2外国語の英語を使うと謙虚に疎通しようという姿勢になるという。

また、「『インドネシア人は働かない』というようなことをよく耳にするが、それは働かせ方が悪いのであって、従業員が働かないのは経営者のせい」と言う。責任と権限の明確化を図り、何よりも経営者自らが日本の本社ばかりみるのではなく、現法を守る姿勢が必要とする。

「本社は、株主であって経営者ではない。野球と一緒でオーナーが口を出せば試合にならない」とする。

断食月に入っていたこの日も、夕方まで食事ができないにもかかわらず、断食明け大祭(イドゥル・フィトリ)の連休で製造日が少ない月となることから、社員からは自主的な残業の申し出があったという。

■家電ブーム

インドネシアへ来たのは1981年。78年から3年間シンガポール勤務の後、家電関係のブームを迎えつつあった当地へと転勤。

当初は、三菱電機の駐在員事務所しかないところへ、製造担当兼社長として営業と経理担当者と3人で来た。当時、カラーテレビの製造ライセンスを持っていた華人系リッポー・グループが出資する100%現地法人(Tiparai Permai Electrocindo)として国内投資(PMDN)の形を取った。その後同社はリッポー・メルコ・マニュファクチャリングと出資比率を折半とした。

最初は、2〜3年のつもりで赴任したというが、家電ブームに乗りカラーテレビの次は、エアコン、冷蔵庫と製造品目も増え、その後は自動車部品のリッポー・メルコ・オートパーツ立ち上げ、日立ケミカル・エレクトロニック・インドネシアの前身リッポー・キョウシャ・インドネシア設立などを手掛けることになり、いつのまにかインドネシアとは長年の付き合いとなった。

今年に入り、出身地の愛媛県人会の発起人の一人となり4月に会の創設にも関わった。もともと県人会対抗ゴルフに出場するために創設したもので、現在会員45人を集め、毎月ゴルフや懇親会を行っているという。

出身は、愛媛県新居浜。県立新居浜工業高校を卒業するとともに、三菱電機に就職。大阪の伊丹工場で働きながら、大阪府立大学で機械工学を学んだ。カラーテレビの本放送の始まりとともに、京都製作所でブラウン管から完成品までのテレビの一体生産のための新工場の設備設計を担当した。昭和41年の夏休みには毎日出社、4人で担当した設計は、図面作成から工場建設現場での指導までこなした。

高度経済成長のさなか、同工場には3,500人が働き、集団就職してきた女子社員が寝泊りする女子寮の寮長も2年間勤めた。長女が日本の高校に在学した時はこの寮から通学したという。

■強い中小企業支援へ

SME連合会の会長を立ち上げから務めて4年になる。SMEのこれまでの活動は、労務、税務、情報交換など情報提供が主な役割だったという。

ただ、来年からは強い中小企業作りをテーマとした下請け企業からの脱却を目指した支援を行いたいとする。他団体との連携で、政府も推進するサポート産業の育成の旗振り役となり、官民一体の振興を目指したいという。

64歳の現在は、数年後には日本に帰りたいとするが、まだインドネシアでやることも多そうだ。ジャカルタ在住。家族は、京都製作所時代に知り合った妻と長女、長男。(インタビュー・今野至)

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