瀬間あずささん:日豪ヘルスリソース経営施設ケアから地域ケアへ――。痴呆のお年寄りや障害者の尊厳を守り、できる限り自立した普通の生活が送れるシステムをつくり上げることで、社会の負担も軽減する。日本より5年ほど早く、1980年代半ばに政策転換した豪州へ、大勢の日本人が視察に訪れるようになっている。シドニーを拠点に、そのコーディネートを一手に引き受ける瀬間あずささんに、これまでの16年を語ってもらった。 3つの顔で日豪医療の橋渡し2003/12/2 ![]() 「豪州のバス運転手は一見ぶっきらぼうだけど、とても親切。バス停で待っていると降りてきて自然に手を差し伸べてくれる」――豪州視察に訪れた障害者の感想だ。 視察希望者に重度のぜんそく持ちの障害者がいたこともあった。豪州はぜんそくの罹患率が世界でもトップ。瀬間さんは「何とかご辞退いただくように説得した」が、意志は固くついに来豪。だが心配をよそに、ごく普通の観光客と同じようにショッピングや観光を楽しむ姿を見て、「これが本当のノーマライゼーション(障害者が一般の人と同じように暮らせること)だ」と実感させられたという。 「本当は大学に行って歴史を勉強したかったんです」。しかし、薬剤師として女手一つで3人の子を育てた母親の助言は「女性は自立しなければ。手に職を」。 看護師となって5年間が過ぎ、外の世界を見てみたくなったころ、趣味の音楽、レゲエを通じて知り合った豪州人からワーキングホリデー制度の存在を知る。貯金と英会話の勉強に励み85年末、初めて豪州の地を踏んだ。 再び医療の世界に 瀬間さんは3つの顔を持っている。1つは、ほかでもない看護師の顔。滞在先の豪州で思いがけず医療の世界に戻ったのは、地元紙で老人ホームの看護助手アルバイトを見つけ、採用されたのがきっかけだった。いわく「貧乏性なのか、働かないと不安になってしまって」。 当時から看護師不足が深刻だった政府の優遇制度を利用し、ビザの期限切れ直前にニューサウスウェールズ州の登録看護師免許を取得。永住権も取ってしばらくこの地に腰を落ち着けることとなった。 さらなる転機をもたらしたのは、今日まで勤務するシドニー北部のホーンズビー公立病院。「地域との連携に力を入れる病院で、90年代に入ると数々の日本人が視察に訪れるようになったんです」。必然的に瀬間さんが通訳に借り出され、次第にコーディネートも任されるようになる。 「96年、これまでにない大規模な研修の依頼が病院にあり、動くお金も大きいですし、よりしっかりした受け入れ態勢が必要と考え、日豪ヘルスリソースを設立しました」 経営者という2つ目の顔が増えた。以来、保健医療福祉の幅広い分野で、質の高い視察・研修を提供し続けている。 コーディネート業は、視察先の選定から交渉、双方の活動内容・目的のマッチング、各種手配、当日のお世話まで気遣いの連続。そんな中「来てよかった」「自信を無くしていたけど日本に帰ってまた頑張る気になった」――参加者の言葉が何よりの元気の素という。「以前視察に来た日本の団体が、今度は豪州側の団体に逆訪問を招致してくれたんです」。話す声が弾む。「ケア医療の地道な活動も、交流することで新しいエネルギーや知恵が生まれる。それに貢献できるのがやりがいです」 日豪の掛け橋として 97年からは、高齢者ケア、特に痴呆症ケアでリーダー的存在の非営利団体ハモンドケアグループ傘下、痴呆症サービス開発センターでも、唯一の日本人スタッフとして活躍するようになった。これが「第3の顔」。 半日から2日間の研修を実施したり、隔年で国際痴呆会議を主催する。民間から官公庁や自治体、研究者まで広がるクライアントに、電子メールやニュースレターを通じて情報を発信し人脈を保つのも重要な任務だ。 在豪16年。自己主張しなければ不利になる慣れない英語文化。名刺の受け渡し方1つから学ばなければならないビジネス立ち上げ。「かつては日本に一時帰国するたびに戻りたくなくなった」という豪州は、瀬間さんにとって「戦いの場」。 そんなとき励みになったのは「日本人女性ならではのこまやかな心遣いを忘れず、プロとして活躍する」仕事仲間の通訳者たち。そしてもちろん、現地で出会い、結婚12年になるご主人だ。「彼の支えがなければやって来られなかった」。瀬間さんが、とびきり優しい「4つ目の顔」をのぞかせた。(聞き手・長江知加代) >>この目次トップへ[P R] [P R] [P R] |