J―SYSフィリピン社長・森田真澄さん1961年9月、山口県生まれ。千葉県育ち。日本大学生産工学部を卒業後、85年に日揮情報システム(J―SYS)に入社した。2009年1月から現職。マニラ首都圏モンテンルパ市で単身生活。休日はフィリピンで始めたゴルフと衝動買いしたバイオリンの習得に費やす。バイオリンは教室にも通い、「厳しいレッスンは精神修養にもってこい」とか。 主体的に活動できる組織づくりを2011/2/24
世界を股にかける仕事がしたい――大学卒業後、グローバルに事業展開する日揮のコンピューター部門が独立し、83年に産声を上げたばかりだったJ―SYSに入社した。学生時代に培った構造物解析の知識を生かし、プラント建設などの海外事業を情報技術(IT)面から支えようと夢を描いたが、不思議と海外での仕事に縁はなかった。 本社業務部に勤務し、コンピュータービルの管理やシステム設計などを担当した。「仕事に追われ、納期に追われる毎日」の中で、国際プロジェクトへの対応を目的に、92年にJ―SYSフィリピン(JPI)が設立。フィリピン人IT技術者とも仕事をするようになったのが、思えば海外への入り口だった。 ■入社25年目に初の海外赴任 当時抱いたフィリピン人の印象は、「完璧が求められるシステム開発分野で、7〜8割程度の品質で満足してしまい、仕事に対してどこか後ろ向きの印象だった」。とかくマイナスイメージが先行したが、数年後に現法社長として白羽の矢が立ち、入社から約25年を経て初の海外勤務に就いた際に、それは誤りだったと気付く。 赴任後にまず驚いたのは社員の貪欲さ。特別手当が出る残業や休日出勤を惜しまず、有給休暇も給与に換える。厳しい競争を勝ち抜き入社した社員たちは、能力はもちろん、向上心や高い創造性も備えていた。 社長室を飛び出し、ローカル社員たちと席を並べた。技術者出身という経歴を生かして、積極的に対話を進めるうち、社内の風通しが良くなったと実感できた。同時に、フィリピン人の持つ寛容性に接して、自身が変化したことにも気付く。「部下を自分の兄弟や子どものように感じる感覚は今までなかった。プロジェクトの打ち上げでは、社員と一緒になって思い切り楽しんでいます」と職場関係の充実ぶりをうかがわせる。 ■3カ年計画を推進 自身の任期を想定し、「ホップ・ステップ・ジャンプ」と題した3カ年計画を掲げた。現在は親会社を通じて獲得した仕事がほぼ100%を占めるが、今後は東南アジア地域から自前の仕事の受注を目指す。「社員のモチベーションを上げるためにも、自ら獲得した仕事に取り組む必要がある」と指摘。主体的に活動できる組織づくりを進める。 さらに、フィリピンをグローバルな人材供給拠点にしたいと話す。現在、中東のプラント建設現場などにJPIの約10人がIT技術者として出向いているが、この数をさらに増やし、フィリピン人の海外派遣を後押しする考え。そのため、新人研修は念入りに実施。特に日本語教育に注力しており、入社後400 時間に及ぶ研修の後、日本語検定の合格を義務付ける。 一方、充実した研修が他社の格好の引き抜き対象となり、より高額な給与を求めて会社を離れる社員が頭を悩ませるジレンマも。ただ、「社員は成長を実感したいと考えている。自己目標実現の場を提供することで、給料を上げることなく離職率を下げていきたい」と一貫した姿勢を示す。 将来的には、親会社で手掛けるプロジェクト・マネジメント・システム(PMS)の運用、メンテナンスなどもフィリピンから遠隔で行いたい考え。フィリピン人社員に「日本人を超えろ」と、げきを飛ばす一方で、日本人社員には「若いうちは海外に出た方がいい」とアドバイスする。 3カ年計画の最終年となった現在の自己採点は「70点」。昨年10月には設備保全管理システムの販売もフィリピンで本格的に開始した。日系企業の海外進出が加速し、他国企業との競争が激化する中で、「日系企業をシステム面からサポートしたい」と話し、「オールジャパン」体制に強い意欲を示す。(フィリピン編集部・中島政之) >>この目次トップへ[P R] [P R] [P R] |