澤本博さん:Crown Line Regional Director

名刺の裏に書かれた「引越20年の実績」がそのままキャリアに当てはまるクラウン・ラインの澤本博さんは、かつてほど豪快な日本人駐在員がいなくなったという

引っ越しキャリア20年、応募倍率1倍の縁

2004/1/13

澤本 博さん

クラウン・ラインに入社したのは、同社の設立4年目に当たる1984年9月で今年がちょうど20年目となる。シンガポールが拠点の同社が当時、東京で社員を募集したところ、応募倍率は1倍の澤本さんだけだったという。しかも、面接場所を間違えて、隣のホテルに着いてしまったにも関わらず、森幹雄社長が見抜いていたかのように、間違ったほうのホテルで待ち構えていたという。携帯電話などない時代。森社長がその場にいなければ会うことはできなかったかもしれない。「あれも縁だったんでしょうね」と澤本さんは述懐する。

入社してすぐにマレーシアのペナンに半年間配属になった。このペナン時代が、すべての土台になったという。仕事を習う人はおらず一人オフィスで何から何までやらなければならなかった。しかも、最初は与えられていた営業用の自動車も、日系企業の流入が激しく、忙しくなったシンガポール本社へ提出が命じられ、最後の1カ月は日本へ帰国した顧客からもらった自転車をこいでの仕事となる。

それでもペナンという土地柄に支えられた。古き良き中華街がいまも存続する同地は、「人が優しい」。いまでも、当時知りあったマレーシア人の友人らをよく訪れるという。

営業より現場

日本人社会特有の「つきあい」や「接待」に抵抗があり、労働の基本は「汗かく」仕事で認めてもらうことという。

営業周りよりも、現場での評価を積み上げていくことが次の仕事へつながるとの考えだ。その分は、他社との提携などで仕事量を増やす努力をしている。シンガポールを経て、マレーシア事業を率いるようになったときには、「つきあいは下手なのに自分で会を作るのは好きで」山歩きの会を作った。この会でも仕事に結びつけようとする入会動機はなしとしていた。現在この会は、50人程度の会員になったが、若い人も会社の社長も同列とする。もう一つ作った出身地の岩手県人会については、第1回の会合を持つ間もなくインドネシアへの転勤となった。

ジャカルタに赴任したのは2002年10月と最近のことだ。いまは、1998年の暴動で一時避難後にインドネシアへ戻った駐在員が帰任する時期に来ており、仕事量が減るということはない。ただ、新規で進出する企業が少なく、1サイクルとしての3〜4年後の見通しに懸念を示す。

インドネシア日系社会の特徴は、当地に長期滞在する人と短期サイクルで交代していく駐在員との交わりが薄いことと感じる。これまでのマレーシアやシンガポールではあまりみられなかったかい離が存在しているという。

20年前の駐在員といまの駐在員の違いを尋ねると、「自分で判断する人が減った」との答えが返ってきた。また、かつては「お前気に入ったから」という助けたり助けられたりが頻繁にあったという。

いまは、並外れた失敗をする例も減ったが、即決できる人も減ったという。

やりたいことをノートに

最近ノートにやりたいこと【を】書いてみると48個もあったと話す。現在46歳で、50 歳くらいには引退したいと漠然と考えている。その後は、「自然に接する農業や炭焼きなどに挑戦したい」と、やりたいことをつづっていく。

これを捨てずに取っておくと、かなっていることが多いという。2年前に書いたことが「意外に手に入っている」。この種のノートは自分の頭を整理する手段の一つでもあるという。

現在単身赴任5年目。10 歳年下の妻・幸子さんは、日本で医学部に通っている。シンガポール在住中に父親が死去した時、日本の医療関係者の能力に疑問を感じたのが、幸子さんが医者を目指すことのきっかけと澤本さんは語る。

1年間自宅で勉強し、大学の試験に合格した。今年医学部6年生で小学校2年生の息子と暮らしている。

「妻のことがいまでも好きです」。そんな言葉を自然と語ることができる数少ない人でもある。(インタビュー・今野至)

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