ピーター・アームストロングさん:シドニー大学建築学科講師

母校シドニー大学で教鞭を取るかたわら、一昨年には豪州最高峰の建築賞「サルマン・アンド・フランシス・グリーンウェー賞」を受賞するなど、建築家としても活躍するピーターさん。早稲田大学の修士課程に留学したことが、思いがけずも「相撲」とかかわるきっかけとなった。

土俵も建築界も「戦場」、思……

2004/1/20

ピーター・アームストロングさん

ピーターさんが留学を考えた1965年は、ベトナム戦争のさなか。米国を避け、建築技術の面から日本を留学先の候補に挙げた。

日本建築に関する原書を読んであこがれを募らせた。東京五輪のために作られた代々木の国立競技場に感銘を受け、日本行きを決意する。

著名な指導教員のいる東大、早大、京大の3大学にそれぞれ手紙を書いたが、当時は学生運動が盛んな時期。東大の教授からは、学部が過激派の学生に占領されていて書類を返送できないと返事が来た。一方、早稲田からはすぐに連絡が届いたため、都市計画の巨匠、吉阪隆正教授の研究室に入ることを決めた。

まわしが嫌で山岳部に

予定より早く1年で奨学金の審査に受かり、69年に渡日。準備期間が短くなったために日本語試験で聴き取りがまったくできず、1年目は日本語教育を受けることになった。

翌年、早大大学院に入学するための条件は、週30時間の日本語授業、理工学部の研究室会議出席、英語を話せない下宿、それから運動部に入部することだった。

指導教授の吉阪教授は日本山岳会の会長。ピーターさん自身もシドニー大で登山部の幹部だったが、同教授は山登りではなく日本の伝統的な国技である相撲を推薦。しかし「まわしは嫌だ。魅力ある日本の山に登りたい」と頼み込み、初の外国人として早大山岳部に入部した。ただし、こちらも結局、「陸軍に入るような(笑)」経験だったそうだ。

日本語の勉強にも慣れた2年目には、古文や漢文にも挑戦。川端康成の作品などにも親しんだ。今でも、山本周五郎や藤沢周平などの時代小説を愛読する。「吉阪先生は技術だけでなく、日本文化も習得してほしかったんですよ」

論文の題材は「萩の城下町」。ピーターさんは、当時の城主である毛利氏などを含め、史実についても造詣を深めた。萩の街作りの系譜をさかのぼると大阪、古代の難波京から、新羅・百済へとつながる。ライフワークとしての研究分野には、7世紀の朝鮮半島も含まれるようになった。現在、日本や朝鮮の古い文献を調べる際に古文や漢文を学んでいたことが役立っている。

世界大会出場は「誉れ」

卒業後、世界的にも有名な菊竹清訓建設設計事務所に1年半所属し、74年に豪州に帰国した。以後、大学で学生を教えながら30年間、建築設計に携わってきた。一昨年の受賞作はニューサウスウェールズ大学にあるパレード・シアターの設計。日本の都市史に関する本の出版も計画するなど、充実した日々を送っている。

そんなピーターさんが再び相撲と関係を持つのは96年のこと。国際相撲連盟の下部団体、豪州相撲連盟から、日本語ができることを理由に、運営の手伝いを頼まれた。

最初は相撲を取ろうとは思わなかったが、「どうせならけいこに出ないか」と誘われる。「そのとき50歳。山だけでなく水球もやっていたから体力に自信があったけど相撲となると迷った」

魅力的だったのは、50歳になって23歳の時に断った相撲を取る機会に恵まれたこと。あの時やっていれば、どう展開していたかと思うと、好奇心がわいた。

初めはまわしの下にはいていた水着も脱ぎ、2001年には青森県弘前市で行われた世界相撲選手権に最年長で出場。団体戦1回戦で対戦相手を押し出した。当初は3人だった豪相撲連盟の練習参加者も、今では10人を超えている。

奥さんからは「いい年をして、大勢の前で裸で戦うなんて」とたしなめられるそうだが、「年相応にしたくないんです。だから大会に出て、戦ったのは『誉れ』と思っていますよ」

土俵を戦場と思えば、大学や建設業界も戦場と語る58歳。相撲を通じておのれと相手を知ることが大事と学んだピーターさんが、3つの「戦場」で躍動する日々は当分続きそうだ。(聞き手:大畑知則)

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