タイ  2010年11月18日(木曜日)
【タイ政治社会の潮流】洪水に思う慈悲・格差観念の変容[社会]

第85回

ローイクラトンの時節である。しかし、灯篭流しのロマンチックな風情に酔っている暇はないようである。洪水(水害)の時節でもあるからだ。今年はどこでも異常気象なのか、水嵩が例年よりも増して、各地で大きな水害が生じている。とりわけ、東北部、中部、南部がひどい状態で、被災者の救済が急務となっている。

政府も総力を挙げて救済に取り組んでいるようだが、もっとも目立つのは、この10月にプラユット・チャンオーチャー大将を新しく司令官に迎えた陸軍である。この洪水を好機ととらえ、5月の赤服を中心とするラチャプラソン集会などの取り締まりで多くの死者を出し、落ちたイメージを上げようとばかりに、きわめて熱心に救済に奔走している。

「このところ、陸軍は戦力が落ちている。というのは、洪水救済に出動しているからである。何日も軍は水漬けになっている。だから、この時期、問題を起こさないでほしい、政治対立も喧嘩も休憩と願いたい」と、プラユット司令官が自ら発破を掛けている。兵士はもちろんのこと、軍上層部も、多勢が水害現場に出動し、修復工事や物資の配布を通して、住民とよい関係を築くのに躍起になっているようだ。実際、赤服の影響が強い東北部は救済重点地域になっているという。まさに、「禍を利用して福となす」である。

政府も、家屋の流出などに救済金を付与することを決め、200億バーツにのぼる緊急予算を計上した。しかし、こうした、政府の救済金支給や陸軍の救済政策の基本に流れる考えは、広く捉えれば、伝統的な「ばら撒き」といえるのではなかろうか。もう少しきちんと言い直せば、タイの伝統的な価値としての「慈悲(メーター・カルナー)作用」である。要は「(慈悲深い)持てる者が持てない者に恵み、持てない者はありがたくそれを受ける」という考えである。そこには、「持てる者」と「持てない者」という固定的な格差観念が前提となっている。

私の友人で気鋭の社会学者であるアッタチャック・サッタヤーヌラック准教授(チエンマイ大学)は、政治の指導層や知識人の主流が「慈悲・格差」の観念の変容に気がついていないことが深刻であると警告している(「クルンテープ・トラキット」2010.7.1)。

また、前々回のこの欄でも「経済的格差」を取り上げたが、政府機関は国民の高所得層20%と低所得層20%の所得を比較する数字を毎年はじき出しては、しばらくすると忘れると強く批判している。たしかに、従前は下層の者は自らの生活の現実(貧困)を受け入れ格差を容認してきたため、経済格差であれ社会的不平等であれ、問題を生む要因となりにくかった。

寒季になると貧困住民に毛布を寄贈する慣例があちこちで見られるが、その際寄贈者は毛布を購入できる所得を住民が得るようにすべきであるなどとはいささかも考えない。それは、格差があってこそ、「持てる者」は「慈悲深い」存在であり困っている者に慈しみの心を持っているというイメージを社会に抱かせることが出来るからである。

そのためか、現在有力な社会的勢力となっている中間層にも、このような「慈悲」観が宿っている。しかし、この「慈悲」の対象は絶対に上昇の見込みのない下層の困窮者に限られている。伝統的タイ社会における格差への対応は「慈悲」を示すことであるが、それはその「慈悲」に平伏し、「慈悲」を受け取った以上恩を感じる者にのみ示されてきたのである。

もし、乞食が近づいて肩を叩き「友よ、食べ物代を恵んでくれ」と物乞いしても、カネを与えるタイ人はいない。タイ人にとって、乞食は平伏する存在でなければならないのである。つまり、タイ人は、自分が天国へ行くために、「慈悲」を示す(タムブンを積む)対象を確保する目的で格差を放置しているのであると、アッタチャックは言う。

これまで、「慈悲」を受けていた者も、格差を業(カルマ)の故であると当然視してきたが、ここ20年来の経済成長は能力と努力により自らの地位を上昇させることが出来ることを経験的に知るようになった。と同時に、彼らは自らの力では乗り越えられない障壁として、格差に起因する社会的不平等の存在に気がついた。伝統的な「慈悲」の受け入れは自らの尊厳を冒すものであると悟り、「慈悲」ではなく社会的機会均等などを要求し始めた。

つまり、タイ社会一般が旧来の格差観念を捨てない以上、経済格差は飛び火し政治的社会的格差をも増大させ、場合によっては暴力の使用も辞さない過激な社会反乱を生み出す温床となるおそれが十分にある。とりわけ、指導層は、知識人も含めて、未だに伝統的格差観に留まっており、旧来の「慈悲」による援助や救済に力を入れている。彼らは下層民の慈悲・格差観念の変容をまったくといっていいほど理解しておらず、そのことがここ数年来のタイ社会の政治的・社会的対立ないしは相互憎悪を生み出しているのである。こうしたアッタチャックの見方は、的確ではなかろうか。

<筆者紹介>

赤木攻(あかぎ・おさむ)大阪外国語大学名誉教授

大阪外国語大卒業後、タイの国立チュラロンコン大に留学。大阪外国語大教授を経て、1999年同大学長に就任。2004年から、東京国際交流館館長、東京外国語大学特任教授などを歴任。

専門は東南アジア地域研究、タイ政治・社会論。プミポン国王のベストセラーの日本語版「奇跡の名犬物語」の翻訳も手掛けた。1944年、岡山県新見市生まれ。

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