タイ 2012年1月19日(木曜日)
【タイ政治社会の潮流】漂流する「タイらしさ」[社会]
第114回
人間個人はもとより社会にもアイデンティティー(同一性)がある。とりわけ国家という近代的政治社会は、統治という視点からもアイデンティティーを必要とする。アイデンティティーが確立した社会は、統治がスムーズにいくし、ポテンシャルも高いのが普通である。だから、場合によっては、国家はアイデンティティーを創り出す努力をすることも多い。
国境を植民地勢力により人為的に策定された東南アジア諸国では、異なった民族や文化を無理やりに一まとめにしたため、国家としてのアイデンティティーの確保が困難で、国家運営に苦労している場合が多い(現在のミャンマーはその好例であろう)。比較的長い歴史を有し植民地化を免れたタイでも、国のアイデンティティー、つまりは「タイらしさ(Thainess)」については様々な議論がなされてきた。ここでは、タイの第一の知識人であるニティ・イオシーウォンの見解(「タイらしさの歴史」『週刊マティチョン』第31巻1618号、pp.28-29)を参考にしながら、「タイらしさ」について触れてみたい。
アユッタヤー時代にあっては、ナーラーイ王(1632〜88)時代をはじめとして外国人の往来が多かったこともあり、自分たちはムスリムではなく、日本でもなく、西洋とも異なることはもちろん知っていたが、「タイらしさ」は意識されていなかった。やはり、「タイらしさ」が意識され始めたのは、西欧植民地勢力のアジア進出が本格的になる4世王(1804〜68)時代であった。支配層は、政治的侵略(植民地化)危機に加えて、文化侵略の危機を強く感じ、「ファラン(西欧)」を「脅威」そのものとして認識した。
しかし、その「脅威」はアンビヴァレントな性格を帯びていた。特に、「ファラン文化」はタイの伝統的文化にとって脅威ではあったが、知れば知るほど強い憧れが湧く文化でもあった。しかし、ファランを真似ることはできた(服装など)が、それはあくまでも真似でありファランそのものになることではなかった。ただ、そこから「わたしたちタイとは一体何なのか」という自問が生まれ、「タイらしさ」の探索が支配層を中心に始まった。
「タイらしさ」の追求のひとつの答えは、仏教であった。4世王自身による宗教改革―タンマユット運動―は、キリスト教に対抗し得る科学的な独自の仏教を創り出そうとしたのであった。
「タイらしさ」はタイの統治層(上層部)の自己主張として生まれたが、一般にはファランと同じになりたいが、結局は同じになれないというジレンマを孕んでいた。5世王(1853〜1910)時代以降、近代化政策推進のもとに、国王や王族を中心に独自の歴史、軍隊、博物館、図書館、動物園、英雄、国旗、国歌などが創り出され、「タイらしさ」が強化された。しかし、それらはファランの模倣とも言え、古来の庶民文化に見られる「タイらしさ」は当然無視された。つまりは、支配層が是とする文化(多くはファランの模倣)が「タイらしさ」とされた。
6世王(1881〜1925)の時代になると、一般文化に加えて政治思想も流入し始めた。議会制民主主義という代物である。絶対王政こそが現実であり、「タイらしさ」である以上、議会制(代表性原理)を容認するわけにはいかなかった。6世王は、「議会を導入しても、議員のなかにはタイ語を解せない(タイらしさに欠ける)者がいる」といった本質からやや外れた論理で、議会制が「タイらしさ」に反することを強調している。1932年の人民党革命により議会制は導入されたものの、支配層は好ましくない者を「タイらしさ」に欠ける者として排除した。たとえば、中国人(華僑)、自由主義者、コーミュニット(共産主義者)に社会的マイナス符号を付した。その一方で、ピブーン(1897〜1964)が推進した「国家信条」運動では、服装、タイ文字綴り、礼儀作法などなどにファラン文化を取り入れ、それを「タイらしさ」として演出しようとした。生活文化の面におけるファランヘの完全な敗北であるといえるかもしれない。いずれにしても、「タイらしさ」とファラン文化との違いを矛盾なく説明することはきわめて難しい。
5世王時代の鉄道建設に始まる近代化やサリット(1908〜63)時代以降の開発では、大きくファランに頼ったため、「タイらしさ」が失われていった。究極は冷戦時におけるベトナム戦争への協力であった。アメリカ帰休兵の休養地と化したタイでは、ファラン文化が全土に拡大し「タイらしさ」を破壊していった。タイ人が育んできた生活文化、とりわけ道徳や性慣習、金銭感覚などをみごとに変えてしまった。パットポン街(バンコク)、ウドーン、タークリーなどにおける夜の光景には、もはや「タイらしさ」は微塵にも残っていなかった。
1980年代になってからは、成長してきた中間層が「タイらしさ」探しに参加し始めた。彼らは二つの「タイらしさ」を抽出した。ひとつは「村落」であり、工業化や都市化の悪い影響を受けず、国家から比較的自由である村落共同体を描き、そこにファランにはない純粋な「タイらしさ」を見ようとしたのである。「ほどほど経済」論はそうした流れを汲んでいる。もうひとつは、「村落」とは真反対に位置する「王制」である。ファランの国々にも王制はあるが、タイのそれは独自のものであり、まさに「タイらしさ」そのものであると主張する。そして、「村落」と「王制」の二つを接合したところに真の「タイらしさ」があるという意見も強い。しかし、それには懐疑的意見もまた多い。
日常的にタイと接している者には、「タイらしさ」は確かに存在すると感覚的には思うのだが、果たして何かと正面から問われると、的確な答えはなかなかできないのが普通であろう。「タイらしさ」も、常に漂流していて掴みにくい。
<筆者紹介>
赤木攻(あかぎ・おさむ)大阪外国語大学名誉教授
大阪外国語大卒業後、タイの国立チュラロンコン大に留学。大阪外国語大教授を経て、1999年同大学長に就任。2004年から、東京国際交流館館長、東京外国語大学特任教授などを歴任。
専門は東南アジア地域研究、タイ政治・社会論。プミポン国王のベストセラーの日本語版「奇跡の名犬物語」の翻訳も手掛けた。1944年、岡山県新見市生まれ。